産学連携講座 4 ホームページ版 バイ・ドール法の成立
宮田由紀夫 (大阪府立大学経済学部教授・本会理事)
 

    
 第2次大戦後、連邦政府から企業、大学への研究資金提供が増加したのだが、研究成果としての特許の帰属が問題となった。建前としては政府資金なので国有特許となり、どの企業にも非排他的にライセンスされるのだが、実際には統一した方針はなかった。国防省や全米科学財団は研究実施者(企業や大学)に特許を持たせ省庁はライセンスを受けた。エネルギー省、厚生省(1978年に教育省が分離独立するまでは保健・教育・福祉省)、農務省、航空宇宙局は特許を省庁が持った。

 1963年から厚生省と全米科学財団が各大学と個別に結ぶようになった特許権実施契約(Institutional Patent Agreement, IPA)では、大学がこれらの省庁からの研究資金の成果を特許として持つことを可能にしたが、実際には大学による特許保有はほとんど認められなかった。技術移転の伝統を持つウィスコンシン大学は厚生省と交渉した結果、同大に有利な新しいIPAを1968年から実施することになり、さらに同大は1973年には全米科学財団も同様のIPAを結んだ。このIPAでは大学がその省からのすべての研究成果を特許として保有することが認められ、排他的に企業にライセンスすることもできた。(ただし、排他的ライセンスは10年間が上限であった。)交渉に時間がかかったケースもあったが他の有力大学もこの新しいIPAを結んだ。コーエン=ボイヤーの遺伝子組み換え技術のスタンフォード大学による特許申請はバイ・ドール法以前の1974年であるが、スタンフォード大学がIPAを結んでいたので可能だったのである。

 1970年代後半になると政府保有特許が実用化されていないことが問題になった。国有特許は「だれでも使えるがだれも使わない」状態だと批判された。1976年度末に連邦政府は28,021件の特許を保有していたが、1%(282件)のみがライセンスされていたことが明らかにされた。ただし、連邦政府保有特許のうち17,632件は国防省保有の特許であり、前述のように同省は研究実施者に特許保有させる方針をとっていたので、国防省保有になっている特許は企業が関心を示さなかった技術であり、当然ライセンスされにくいものである。実際、厚生省保有の325件のうち23%の75件がライセンスされていた。1%という数値は連邦政府保有特許の民間への技術移転を過小評価しているのだが、技術移転の低調さの証拠として主張され、省庁間の不統一をなくして研究実施者保有の方向で統一すべきだとの意見が強まった。

 1978年にプデユー大学が厚生省からの研究資金で開発した医療機器の特許を保有しようとIPAの交渉を行ったところ、厚生省からIPA制度はもう結ばないと伝えられた。そこで、同大学は、地元インディアナ州選出のバイ(Birch Bayh)上院議員(民主党)に陳情した。バイ議員は超党派での支持を得るために、共和党の大物であったドール上院議員(Robert Dole、カンザス州選出)を共同提案者に誘った。審議が行われた上院司法委員会委員長のケネディ議員は有力研究大学を抱えるマサチューセッツ州選出で法案に理解があった。

 こうして1980年にバイ・ドール法が成立した。(施行は1981年7月1日。) バイ・ドール法は特許法の改正であったが、次の3点から成り立っている。(1)政府保有の特許を従来の非排他的だけでなく排他的に企業にライセンスできる。(2)大学を含む非営利団体や中小企業(従業員500人未満)が研究実施者の場合、政府資金による研究成果を特許として保有できる。(3)大学がそのようにして得た特許を企業に排他的・非排他的にライセンスできる。産学連携に関係があるのは(2)と(3)である。政府資金が一部でも含まれていれば同法の対象になるので、産官学の研究プロジェクトでも特許は大学のものとなる。

 議会では企業が政府資金で得た特許を実用化して利益をあげた場合は、1部を政府に還元すべきだという意見もあったのだが、どの程度が政府資金による発明だかの判断しにくく、実際の徴収も難しいので、見送られた。その代わり、大企業ばかりが利益を得ないように上記の(2)において大企業は除かれた。また、政府保有特許のライセンス先も中小企業を優先すると定められた。

 しかし、バイ・ドール法はそれまで26の省庁で26の方針があったところに27番目として加わったといわれるように、それまで研究実施者に特許を持たせていた省庁は引き続き大企業にも特許を保有させていた。また、1983年の大統領からの覚書(Memorandum)によって、各省庁に規模にかかわらず研究実施者に特許を持たせることになり、1987年の大統領からの行政命令(Executive Order 12591)でこの方針の実施が再確認された。

 また、(3)において、大学から大企業への排他的ライセンスはライセンス後5年、特許の実用化後3年のどちらか早いほうで切れることになっていた。しかし、審査に時間のかかる医薬品ではライセンスしにくいことになるし、大学から中小企業に積極的にライセンスされていることが明らかになったので、1984年の特許法改正の中で廃止された。しかし、バイ・ドール法ではイノベーションの担い手として中小企業の役割が重視されていたのである。

 また、バイ・ドール法では、排他的にライセンスを受けた企業はその実用化のための生産活動の主要な部分をアメリカ国内で行うことが義務付けられた。これは、税金で行った大学の研究成果が外国企業を利することがないように設けられた。外国企業の在米子会社は米国内で生産活動を行うのならば排他ライセンスを受けられる。実際には、大学の特許のほとんどがアメリカ企業にライセンスされているが、どこで生産されているかまでは大学は調査していない。また、企業がライバルにその技術を使わせないためだけに大学からライセンスを受けて退蔵するのを防ぐため、企業がライセンス技術の実用化に消極的な場合には連邦政府はそのライセンスを取り上げることもできる(March-in-Right)のだが、実際にこの権利が行使されたことはほとんどない。さらに、連邦政府は大学が保有した特許を非排他的にライセンスを受ける権利をもち、税金で開発された特許が広く納税者に還元される途が完全に遮断されることがないように配慮されている。

 1984年にバイ・ドール法の管轄を商務省になることが決定され、1987年にそれまでの諸規制をすべて包括した「バイ・ドール規制」が決められた。実はバイ・ドール法は1980年の制定、1981年の実施、翌1982年に会計局(Office of Management and Budget)から実施細則の発表、1983年大統領覚書、1984年の改正、1987年の商務省によるの「バイ・ドール規制」の制定ならびに大統領の行政命令と、かなり時間を費やして、というよりむしろ、もたもたして実行されている。バイ・ドール法は重要な法案ではあったが、劇的なものではなかったのである。1987年発表の「バイ・ドール規制」のなかで、政府保有特許だけでなく、大学が取得した特許のライセンス先でも中小企業を優先することが明記された。また、大学が教員に対し政府資金の結果としての発明を大学に届け出て権利を譲渡することを書面で確認することを求めている。そのかわり、(1980年当時から)ライセンス収入の一部は発明者である教員に分配されることと定められている。

 しかし、教員が大学に発明を届け出ないからといって罰則があるわけではない。自分で特許申請・ライセンスを行い大きな収入を得れば、すぐに露呈して問題になるが、面倒なので発明届出をしなかった場合を防ぐことは難しい。発明を届け出たらあとはTLOが特許申請とライセンス先選定を行ってくれて、自分はライセンス収入を得られるという状況にあれば、教員も積極的に届出を行うであろう。しかし、ライセンス先の選定には発明者である教員の意見が有用であるし、ライセンス後も教員がコンサルティングで協力することが実用化にとって重要であるので、TLOにまかせきりにするのもよくないが、有能なTLOが教員の負担を減らすということも教員の協力を得るには大切なことである。

 バイ・ドール法は産学連携を再活性化するたしかに重要なきっかけではあったが、アメリカの大学は戦後の一時期弱体化したとはいえ産学連携を行ってきた。産学連携に積極的だった大学にとっては1970年代初めのバイオテクノロジー革命の方がインパクトは大きかったといわれるが、バイ・ドール法はそれまであまり産学連携、とくに特許取得に熱心でなかった大学までも産学連携に向けさせたという意味が大きい。1980年以降、特許取得に熱心になった大学の特許は被引用回数で測った質の面で劣っていると指摘されたこともあったが、最近では質も向上してきた。(新しい特許を出願するとき、既存特許を引用する。論文と同様、多く引用される特許は重要、質が高い、といえる。)大学コミュニティの中で、技術移転のノウハウが蓄積されてきたためではないかとみられる。

 バイ・ドール法は知的財産権を確立すれば技術革新が促進されるであろう、というカーター政権末以来の「プロパテント政策」の一環である。大学に特許を持たせて民間企業に排他的ライセンスすれば、企業は実用化までの投資努力の誘因を持つことができる。特許が知的財産権を明確にすれば、ライセンスによる技術取引が行いやすくなるのである。また、ライセンス料が得られるので、大学もライセンス先を探すのにより積極的になる。バイ・ドール法制定の背景には国有特許を各省庁が民間企業にライセンスするよりも、大学自らにライセンス先を探させた方が効率的であろうという考えがあったが、その期待は応えられている。1980年以降、スティーブンソン・ワイドラー法などで、国立研究所から民間企業への技術移転も促進されてきたが、研究費当りのライセンス件数・収入では大学の方が効率がよいようである。


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