産学連携講座3 ホームページ版 アメリカにおけるバイ・ドール法以前の産学連携
宮田由紀夫 (大阪府立大学経済学部教授・本会理事)
 

    

 前回、19世紀後半からアメリカの大学は地域経済に貢献することを目指してきたと述べたが、教員や大学自身が特許を取得することは避けてきた。大学の伝統に営利目的の特許はそぐわないと考えられ、また、医学では研究成果は特許で独占するので社会のために医学関係者の間で共有されるものだと考えられていたのである。当時は連邦政府からの資金はほとんどなく、税金を使っての研究は少なかったのだが、研究成果は社会で共有すべきとの考えが強かった。20世紀初めジョンズ・ホプキンス大学は生理学学科の学科長の候補だったロバートソンが自分の研究成果を特許にしていたので、招聘を取り消した。(ロバートソンは放置していたら企業が特許化して広く利用できなくなるので自分が特許をとったと述べていた。)ロックフェラー財団はカリフォルニア大学バークレー校のエバンズが財団からの研究成果を特許にしていたので資金提供を中止すると警告した。

 1920年代になるとロイヤルティがすべて大学に行くのならば教員が特許をとってもよいという風潮になった。1924年にウィスコンシン大学のスティーンボックが紫外線を放射して食品や薬の中のビタミンDを濃縮する技術で特許をとった。クェーカー・オーク社が特許権を購入希望したのを断った。同大学の地元は酪農がさかんだったが、ビタミンDが簡単に濃縮されると乳製品の売上が減少することになるので、この技術を大学で管理しようとした。ただ、大学自身が管理することには学内で抵抗があり、1925年にWisconsin Alumni Research Foundation (WARF)という学外団体をつくってそこに特許を持たせた。クェーカー・オーク社には朝食用シリアル食品については特許の使用を認め、1日に1000ドルのロイヤルティを得た。1930年代の大恐慌の時代、WARFからの寄付によってウィスコンシン大学は全米最大の生物化学学科を持つことになった。WARFは成功したのだが、その積極的なライセンス戦略のため、ライセンス先との係争もおきた。政府が高すぎるライセンス契約の仲裁に入ることもあった。学外組織とはいうものの、市民はWARFとウィスコンシン大学とは同一とみており、大学が特許でがめつくかせごうとすることには批判が集まった。(今日でも非営利団体である大学は学外組織〔Buffer Organization、緩衝組織〕をつくって営利活動しているケースは多いが、市民は大学と同一視する。)1943年には司法省がライセンスした外国企業と国際カルテルを結んだ疑いで独占禁止法違反の調査を行った。1946年にWARFはついにビタミンD濃縮技術特許を公開したがそのときまでに850万ドルをすでに稼いでいた。WARFはこの後にも錠剤に糖衣をかける技術や、ウァルファリンという殺鼠剤(ナトリウムを加えると人間用の血液凝固緩和剤になる)の技術の特許を保有し大きな収入をあげた。

 一方、企業との密接な関係は大学内部でも問題を起こしていた。20世紀初めにマサチューセッツ工科大学は機械工学と化学を融合させた化学工学(Chemical Engineering)の先駆者だったが、その中でよりいっそう企業よりの応用研究を目指すウォーカーは、理論研究を重視した化学学科のノイスと対立した。1919年にノイスはカリフォルニア工科大学に移らざるを得なくなった。しかし、ルイスの応用研究重視は学内で不満を招き、彼もまもなく大学を去った。マサチューセッツ工科大学では1930年に著名な物理学者のコンプトンを学長に招き、行き過ぎた産学連携を見直し基礎研究の建て直しを行うことになった。

 スタンフォード大学では物理学科助教授のハンセンがマイクロ波管のクリストロン(klystron)を発明した。1938年に結ばれたスペリー社と産学連携契約では、スタンフォード大学はスペリー社から年2万ドルの研究資金を受けるが、施設と教員2人(ハンセンと学科長のウェブスター)を提供する、特許は大学が持つがスペリー社は排他的ライセンスを受けロイヤルティを払う、研究成果の論文発表にはスペリー社の事前承認がいる、という内容であった。しかし、ジェネラル・エレクトリック社やウェスティング・ハウス社が参入してきたのでスペリー社は新しいクリストロンの開発でなく既存製品の改良を大学に求めるようになり、大学の研究内容に介入するようになった。1年でウェブスターがプログラムのディレクターを辞任してしまった。

この苦い教訓によって、ターマン(教え子2人によるヒューレット・パッカード社の立ち上げを支援した工学部長、のち事務総長〔provost〕)は第2次大戦後、企業の言いなりにならない産学連携を模索した。すなわち、積極的に連邦政府資金を受けて研究能力をあげ、資金的には企業に依存しない体制をめざした。企業の下請けになるのでなく、コンサルティングを通しての教員の知識、また就職・起業を通しての大学院生の人的資本が地元の企業に活かせる方向での産学連携を行った。

大学が自分で特許を保有することには批判があったので、1930年代には大学は第三者組織に特許申請・ライセンスを任せるようになった。とくに著名だったのは1912年に設立されたResearch Corporation(以下RC)である。静電気を利用した除塵装置を開発したカリフォルニア大学バークレー校のコットレルは、企業による実用化を促すには特許にして(排他的)ライセンスすることが必要と考えたが、大学は難色を示した。スミソニアン協会のウォルコットに相談したが、ウォルコットも協会上層部から協会として特許にかかわることはとめられた。そこで、1912年にウォルコットが中心になってRCという非営利の企業を設立したのである。1930年代まではほとんどコットレルの特許による収入であった。1937年のビタミンB1生成プロセスの特許を管理して収入が増えた。また、1937年には前述したように学内での特許管理を見直していたマサチューセッツ工科大学と全学的な契約を結んだ。このときの大学側の推進者が工学部長兼部学長であったブッシュ(のちルーズベルト大統領の科学アドバイザー)であった。1930年代半ばにはウィスコンシン大学のケースなどから、大学の特許は公的機関が一括管理した方がよいのではないか、という意見もあったが、ブッシュは各大学が民間の機関を利用する形にもっていった。

大学は発明をRCに届け出て特許申請とライセンス先の選定を任せ、ライセンス収入はRC、大学、発明者で分配される。RC自らも大学に寄付する。義務ではないが、その資金による研究成果はRCに譲渡するという形が多かった。今日のTLO(Technology Licensing Organization)を学外の第三者組織が行っていたのだ。

前回、第2次大戦戦後になって、大学の研究が連邦政府資金による基礎研究が中心になると産学連携は相対的に後退したと述べたが、産学連携がなかったわけではない。また、これは次回説明するが1980年のバイ・ドール法制定以前でも連邦政府資金で行った研究成果を大学が特許として保有できた。しかし、多くの大学は自分で特許を取得するよりは、教員によるコンサルティング活動や教員・学生による起業という形での産学連携が多かった。利益相反問題がそれほど話題になっていなかったので、今日では問題になるようなこと(教員が社長となり株を持っている会社から引き続き研究資金を受ける)が行われていた。

大学が特許・ライセンスの管理に乗り出すことには躊躇しRCのような学外の特許管理専門組織を利用したため、RCは1960年代には全米で200近くの大学と契約していた。しかし、規模が大きくなると多くのコンサルタントを雇いコストは増加するのに、ライセンス先は見つけにくくなった。RCはもともと医薬品分野で強かったのだが、そのノウハウは他の分野では活かせなかった。ライセンス活動には「規模の経済性」も「範囲の経済性」もあまり働かなかったようである。また、RCのライセンス収入極大化の戦略は企業との関係を悪化させ、これは引き続き企業から研究資金を得たい大学と対立することにもなった。マサチューセッツ工科大学の磁気メモリの特許を管理していたRCはRCA社と裁判で争っていた。さらにIBMとライセンス契約をめぐり対立して、RCはIBMとも裁判を起こそうとしていた。IBMとの関係が悪化するのをおそれたマサチューセッツ工科大学は1962年にRCとの契約を打ち切り、RCAとの訴訟は単独で進めて勝利した。

ライセンス収入重視か企業との関係重視かは、学内にできたTLOと教員との関係でも生じることである。最近ではカリフォルニア大学が企業から今後も研究資金をもらいたかったので、その企業に安くライセンスしたことに対して発明者である教員がライセンス収入が不当に安くされたと裁判を起こし勝訴して230万ドルを得た。この場合は教員がライセンス収入重視で大学が研究資金受け入れのための長期的関係の重視であるが、よく起こる問題は教員が研究資金受け入れを重視し、大学(TLO)がライセンス収入を重視するというケースである。

バイ・ドール法の前からRCのような全米規模の大学の特許管理組織は伸び悩むようになっていたが、バイ・ドール法以降、大学自らが特許管理を行うようになり、その役割はさらに小さくなった。また、1980年代初めに非営利団体によるベンチャー投資などの営利活動への規制はきびしくなったので、RCは1987年に営利組織のResearch Corporate Technologiesを立ち上げ、RC本体は非営利団体として過去からの基金を運用して研究資金を大学に与えることに専念している。RCは商業化の見込みのなさそうな発明は特許申請せず、申請を厳選していたのだが、大学自らが特許申請するようになると特許申請をより積極的に行うようになった。学内組織であるTLOが特許申請しないと発明者である教員が不満を持ち、次から発明届出をしてくれないおそれがあるためである。


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